30年前の今日
俺は、災害派遣の準備をしていた
家の中は地震でメチャクチャ
そんな状況で5歳、3歳、1歳の子供たちと妻を残し
奥尻島での活動をイメージしながら、リュックに食料を詰め込んでいた
当時は、緊急消防援助隊の制度はまだなく、北海道の相互応援協定だけで動いた
奥尻島は、震災前の年まで職場の慰安旅行で何度も楽しませてもらった楽園
うに、アワビの食べ放題
透き通った奥尻ブルーの海
夏と言えば奥尻だった
そんな楽園が、一夜にして地獄絵図と化してしまったあの日
人命救助という名の死体捜索では指揮体制が混乱した
海保なのか海自なのか、はたまた北海道の消防なのか東京消防庁なのか
警視庁までくるという、全国の救助隊が奥尻に集結していた
そして朝一度だけ各組織の代表が集まり、担当区域を奪い合い単独で活動する
地元でありながら、どこかの指揮下に入り合同で活動しなければ
組織力が足りない我ら道西地区の消防
そんな状況で函館市消防本部の水難救助隊と行動を共にした俺は
何故か皇居のお濠を専門に潜っている警視庁の潜水部隊と一緒に
青苗港の捜索に加わった
あれから30年
北海道南西沖地震の教訓は生かされず
その2年後に発生した阪神淡路大震災では
同じく、全国の消防が集結したにも関わらず
指揮体制は混乱し、資機材の互換性もなく救助と消火の時機を逸した
あれから30年
北海道の消防は、津波の恐ろしさを経験していながら
海岸線近くに安価な平坦地と広大な土地を求めた結果
消防署が津波災害警戒区域に建っているという現実がある
あれから30年
直ぐ近くで発生した大地震と大津波だった。人ごとではなかった はずだ
それなのに
自分も含めた市民、道民は俄かに「そんなデカイ津波なんか来るはずがない」
と、どこかで思っている。
あれから30年
あんなに楽しかった思い出ばかりの楽園島
もう復興しているのに、島民は頑張って持ちこたえたのに
未だ一度も足を踏み入れてはいない。
31回目の夏は
青苗港に行って
発見してやれなかった人たちの魂に謝ってこよう
日本最西端と最南端の島 それぞれに憧れがあって
そこに行く という目標は達成した
ただ、やっぱり気持ちがモヤモヤしているのは
あの日以来、奥尻島を避けていた自分への戒めと
復興した奥尻島をこの目に焼き付けておきたい
という、心の奥底にある隠れた願望のせいだ
行こうと思えばいつでも行ける手段と
時間と若干の資金はある
31回目の夏は
青苗港に行って
発見してやれなかった人たちの魂に謝ってこよう
決めた
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