この日に何があったのか
今の若い人たちは知っているだろうか
若い消防職員たちは知っているんだろうか
1993年、26年前の7月12日
震度6の地震が発生し、大津波が襲来、そして火災が発生した
北海道南西沖地震
これにより奥尻島青苗地区が全滅した
死者と行方不明者を合わせると
判明しているだけでも230人を超えた大災害だ
そんな忘れられない、忘れてはいけない大災害を
今年の新聞各社は一切記事にしていない
地元を代表する新聞ですら一面は愚か
総合にも社会にも、どこも取り上げていない
かろうじて、翌日の渡島檜山の地方版にだけ
奥尻町で避難訓練が行われたことを掲載している
石狩湾新港に電源を新設するのも
はやぶさ2の活躍も
朝鮮学校への補助金の件や道議会の喫煙所の件も
確かに大事だと思うけどさ
せめて地元の新聞なら
この日何が起こったのか一年に一回ぐらい
道民に思い出させてくれれば・・・
あの日
楽しい思い出しかない、美しい島、奥尻が燃えてしまった
津波の後に何故火災が?
消防職員としてまだまだ知識が薄かった俺は
そんな理解できない不思議な思いを抱いていた
上空ヘリからのリアルタイム映像に映る
燃えていく青苗地区と傍らにはメチャクチャになった消防車を
今でも鮮明に覚えている
それだけショッキングな出来事だった
そして、まさか
そこに自分が派遣されるとは予期すら出来ていなかったし
現地での自分の活動を想像できる経験も知識も
技術も持ち合わせていなかった
技術も持ち合わせていなかった
全国規模での災害派遣体制がない中
東京消防庁は真っ先に応援に来てくれたが
俺たち北海道広域消防相互応援の隊ですら
統制の取れた活動が出来ていたかといえば
決して YES とは言い難い
当時の札幌消防に広域応援の水難活動を指揮する能力はまだなく
海保と海自もライバル関係こそあれ、協力関係にあるとは言えず
それぞれのプライドがぶつかり合う救助専門の潜水隊員達は
技術的にレベルの低い俺達消防の潜水隊員との活動を拒んだ
唯一、警視庁と道警は連携が取れているようではあったけれど
一番近いはずの警察と消防との情報共有は一切なく
現場では捜索地域の取り合いが始まり
捜索方法でも、しばしば混乱を招いた
捜索方法でも、しばしば混乱を招いた
同じ場所で活動していながら
同じ目的で集まっていながら
同じ目的で集まっていながら
それぞれの機関が各々独自のやり方で活動していた
今思えば、何故あの時の反省と教訓が直ぐに生かされなかったのか
何故、緊急消防援助隊の制度が出来なかったのか不思議なくらいだ
その2年後1995年には更に大きな災害が関西を襲った
阪神・淡路大震災
この時のあまりにもお粗末な消防の活動をキッカケに
やっと緊急消防援助隊が創設され
消防組織法により法律に基づいた部隊となったのは
更に9年後の2004年だ
災害の多い日本において、全国からの応援体制が法制化され整うまで
11年も要したことになる
ただ
それよりも気に掛かることは
やはり、忘れ去られる記憶だ
あの災害を思い出したくない人もいる
忘れてしまいたい7月12日がある人もいる
でも、やはり人間は過去の災害から学んだことを
後世に伝えていかなければならない責任がある
途切れさせてはいけない
途切れさせてはいけない
と同時に
防災は市役所で、消防は災害対応
という概念から抜け出せずに
7月12日に何も行動を起こさなかった一消防職員として
今は、自分を恥じて後悔している
せめて、あの時の無力な自分が奥尻で経験した
消防職員としての教訓は後輩に伝えようと思う
北海道、特に道南の人たちにとっても
俺たち消防にとっても
手の打ちようがなかった程に叩きのめされた
未曾有の大災害だったことに間違いないんだから
失敗談こそが、未来を拓く
武勇伝や自慢話は右から左へ抜けていく
先輩の失敗談から得るものは
その話から自分が何を感じ、これから自分は
どうすればいいのか、を考えるからだ
どうすればいいのか、を考えるからだ
26年前の7月12日
あの日から俺は この言葉を心に刻んだ
その時 どう動く
消防という職業に身を置いている以上
その時 は必ずやって来る
これを読み終えた 直後かもしれない
これを読み終えた 直後かもしれない
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